『モンパルナス1934』を予約した

ディアフレンズに村井さんが出演されていたのも聴いていたし、早く買って

読まないと、と思いつつ今は親の介護に加えて新しい生活がもういっこ増えて

しまって、普通に暮らす以外に何かを追いかける時間がほんとない。

とか言いながら、さすがに書評も出回り始めて、もうそんなに日が過ぎたのかと焦る。

 

これは自分の中のテーマなんだけど、日本が外来音楽を受容した時期というのが歴史上4回あって、

①701年、朝廷に雅楽寮が設置されたとき

織田信長やその他の大名、領主らによってキリスト教の布教が許可されたとき

③1879年、政府(文部省)に音楽取調掛が設置された時(伊沢修二ですね!)

第二次世界大戦後、連合国(アメリカ)による占領期

自分はいつもこの4つの時期を考えながら、日本と日本人がどう外来音楽を受け容れてきたかについて考察するようにしてる。(その後の日本音楽としての発展形態と)

 

おそらく、今回出版された『モンパルナス1934』は特に④において新たな視座を与えてくれると予想している。つまり、戦後日本の音楽は米軍キャンプで演奏されたジャズから始まったとされる定説のようなものがあって、それは確かに渡辺晋、原信夫、ジャニー喜多川北村英治堀威夫、日本の芸能界、プロダクションを作ってきた人たちの名前がでてくるからそれはそうなんだけれど、僕は服部良一の仕事なんかを見ても20年代の上海だったり、同年代のパリ、ここらへんの影響も考えるべきなんじゃないのかなと思ってきた。実際、みのミュージックが同じようなことを言ってる(みのさんって、小泉文夫伊沢修二のことまで調べててほんとにすごいと思う)。

 

この本の詳しく書かれてあると想像しているのだけれど。ソ連スターリンに迫害された芸術家や文化人と、ドイツのヒトラーに迫害を受けた同じく文化芸術人が押し出されるようなかたちでこぞってパリに集結する状況がうまれたのが1934年。

それがドイツによるパリ占領で彼らは一斉にニューヨークにわたる。

パリを引き継いで、ニューヨークで華開いた文化が戦後の日本に伝わる。

だから④を考えるとき、20年代から30年代のパリについて考察する必要が必ずあるのだと思う。

 

〇1960年代洋楽摂取と洋楽の受容態度

ザ・ワイルドワンズが(後に有名となる)リサイタルでビートルズの「Because」をカバーする。

ところがその時には「Because」の音源はまだ国内で発表されておらず(厳密にはリサイタルのあった日には発売されていたらしい)、ワイルドワンズのメンバーはどこから音源を仕入れてカバーすることができたのか?ネットも無ければ、通信事情も貧弱な時代に。この謎!

「Because」がどれだけの難曲であるかは聴いた通りで、たとえ、譜面だけ仕入れることができたとしても実演までにはおそらく至らない。不可能だと思う。

 

同じ時期に、ザ・テンプターズが「Jumpin Jack Flash」をカバーシングルで発売する。

こっちは比較的早い段階で日本版も発売されているのだけど、それでも短期間のうちにカバーして自分たちのシングルとして発売できたことは異例。

 

ワイルドワンズテンプターズの事例だけを見ても、当時、最新の海外音楽に現地でリアルタイムでアクセスできる人がいて、それをただちに日本に持ち帰って広め伝えていた人が存在したこと、かつ、そういう交流場所が日本のどこかに存在していたことが容易に想像される。

ぱっと思い浮かぶのはまずレコード会社の人や音楽関係者はなんだけど、彼らのことは当然含みつつも、実はそこにいたのはファッション業界の人たち、小説家や芸術家のような文化人、裕福な学生たちがいた。なかでも特筆すべきなのはファッションモデルでデザイナー、トヨタのワークスレーサーでかつ実業家、慶應の大学生だった福澤幸雄(

福澤は25歳でトヨタ7のテスト走行中の事故で死亡)。

そして、場(サロン)としてのキャンティがここにある。

著者の村井さんは親と食事にいって、ここに集う大人たちの会話を聞きながら成長した。

 

テンプターズに「いつまでもビートルズの時代じゃないぜ、ストーンズだぜ」と言ったのが福澤その人であるかどうかは知らないけれど、ザ・スパイダースかまやつひろしが「ノーノーボーイ」で彼のことを歌っているとも聞く。かまやつがゴロワーズを覚えたのはもしかしたらキャンティだった?かも。

 

注目されている今回の『モンパルナス1934』、お話し的にYMOと細野さん、となっていくのも仕方ないと思いつつ、帯に「YMOの世界進出」とか書いてしまうと物語全般がそこに引っ張られすぎないかな?と読む前の段階ではちょっとうーん。

キャンティが果たした役割ってほんとに幅が広くて、今に直結しているお話し。

戦後日本人が洋楽をどのように受け容れていったか、その後日本の音楽としてどう発展していったか、そういう文脈のなかにキャンティと川添氏、村井邦彦さんが間違いなくいる。

 

〇渋谷で

オーチャードホール村井邦彦さんご自身が企画されたコンサートを見る機会に恵まれたんだけど(チケット入手してくれた方感謝です!)、開演前のロビーの雰囲気がそれまで見たことも経験したことのないくらいにノーブルでセレブリティだった(笑)。

あきらかに普通の客層と異なっていて、上手く表現できないけど、とりあえず100年くらいは東京都内、ただし山手線より内側エリアにずっと住んでそうな人たちばかりだった。こういう人たちってお金や資産を継承してるだけじゃなくて結局、文化を継承して発信してる人たち。

今思えば、ほとんどの人たちがキャンティの常連のお客さんだったのだろうな、と、

(そこに出演した生田絵梨花さんってまじすごい)

 

〇アルファ

アルファが果たした役割なんてもういまさら語ることもないんだろうけれど、ひこうき雲からYMOまで続く時代のことがよく書かれてたりする。

だけどちょうどいま話題になったしまったスマイルカンパニーにしても元はアルファからスタートしてるわけで、スマイルのワークスってジャーニーズだけじゃない例えば乃木坂46にだってしっかり派生しているわけで(「無口なライオン」は名曲!)、キャラメルママ的なところに(狭く)集約していくべきではないのかなと。

 

藤田嗣治のこと

この本とは関係ない話しにはなってくるのだろうけれど、1920年代に藤田嗣治ってパリの寵児(というか世界の寵児)になっていくわけじゃないですか。その残像残る34年のパリ、岡本の名前は出てきてもフジタの名前はきっとでてこないのだろうな。第二次世界大戦の後、パリに戻りたかったフジタをパリは拒絶しますよね。このへんフランス、パリの人々はフジタに対してどういう思いを持っていたのかな?という問題、ずっと気になる。彼はほとんど亡命みたいなかたちで結局ニューヨークに渡るんだけど(その後はパリに戻れた)、戦争の推進に芸術家が加担してしまった、或いはさせられた、そのことについて整理できない気持ちがある。

1934年にパリに集った人たちは戦争と迫害を逃れていわば平和(文化)を創ろうとしていた人たち、だけど祖国に尽くそうとしたことがもう片方の戦争に加わってしまうことにもなる。最終的に日本国籍を捨てたフジタの思い。