「風を待つ」から感じたこと
もはやロストテクノロジーとも、オールドテクノロジーともいえる、「ウォールオブサウンド」をどうしてこの時期、2ndシングルの表題に持ってきたのか?その意味をずっと考えてきた。
もともと、当時の技術の限界に対する応用(ほとんど苦肉の策w)としてフィルスペクターが編み出した(とされる)「ウォールオブサウンド」は、トラック数においては(理論上)無限大にまで拡大させることが可能となったいま、特段の有用性はない。それに、いまにおいては「それっぽい録り方」をしているだけなのであって、なにも実際に演奏者を大勢スタジオに詰め込んだり何回も重ね録りするわけでもない。あくまでパソコン上で「それっぽく」作るだけなんだけど。
それでも、そうやって曲を作ってみせることにどういう意味があるのか?この曲を聴く人たちにどういうことを伝えたいのか?そんなことを広島ゲバントホールからの帰り道、遠回りしながらずっと考えていた。
既に廃れてしまった手法ではあるのだけれど、まったく世の中から消えてしまったかというと案外そうでもなくて、自分も別に詳しいわけではないけれど、ただ、自分が好きで聴いている音楽の範囲で、だから狭い領域に過ぎないんだけどそれでも何曲かウォールオブサウンドの特徴を示している曲がこの数年でちらほらある。
この曲が発売された早い段階で、もう既に「モータウン調」とか「フィルスペクターがなんちゃら」みたいなことをネット上でコメントしてる人たちがいたことをよく覚えている。その当時、そういうこと言ってる人たちに対して自分は、「アホちゃうか、たかがアイドルソングに」(大ブーメラン!)と思ってた。「見てて恥ずかしいわ」(特大ブーメラン!)と思ってた。ところが、次の「おいでシャンプー」ではさらにそういう人たちが増えて(笑)、楽曲面から乃木坂46はそれまでアイドルに興味を持つどころか積極的に忌避してたような人たちをどんどん巻き込んでいってしまった。
参考までに、ジョージ・ハリスンの「美しき人生」聴いてみてちょ。
美しき人生/ジョージ・ハリスン What Is Life/George Harrison
・11月のアンクレット
渡辺麻由の卒業シンングル。
日本におけるウォールオブサウンドの使い手、大瀧詠一へのリスペクトがはっきりと感じられる作品。照りと艶のあるストリングスの音色、リバーブがかかっているドラム、多重コーラス、コーラスの靄の中でも輪郭がはっきりとしたカスタネット、要所で奏でられるハープのグリッサンド、ミドルテンポでどこか口ずさみやすいメロディー、どこを切り取ってもこれだけしっかりナイアガラサウンドの特徴を捉えている曲はないと思う。
大瀧詠一の「A LONG VACATION」を聴けば、あぁなるほどと感じられと思う。
このアルバムを自分も中坊の頃に買ったのですが、いつのまにやら歴史的名盤と言われるまでに笑。ちなみに、この中で自分がいちばん好きな曲は「カナリア諸島にて」。松本隆の詞のおかげで、いまだに死ぬまでに行ってみたい場所のひとつがカナリア諸島(笑)。あと大三島の台海水浴場で浮輪で浮かびながら薄く切ったオレンジを浮かべたアイスティーを飲むということをやってみた思い出。(どーでもよい話し)
・ゼンマイ仕掛けの夢
11月のアンクレットのあとにこの曲を聴いてもらえれば、より特徴がはっきりわかると思う。大瀧詠一の作品には、この曲のようにフォーク(或は演歌)に近い作品であっても、それをポップスに近づけてしまう不思議な力がある。外来音楽からの影響と土着音楽からの影響をはかりにかけて、もし音楽を右派と左派、そして極右と極左に分類されると仮定して(時代で相対的に変化するが)、それでもなぜかいつもポップスが中道に位置する力を持つという氏のポップス普動説を意識せずにいられない作品。
その他にもいくつかあるのだけれど、いちどここまで。
Akira Sunsetが「無表情」の中で独自の手法で新たなウォールオブサンドに着
手しているところとか。あと、。
〇 音楽の間口(まぐち)
最近はアイドルの中でも、高度な音楽性とでもいうのか、音楽を専門的に深く愛好している人が好むような楽曲を展開してるグループがいくつかある。その中には自分の好みのグループもあるのだけれど、一方で、なかなか多くの人にそれが届かない面もある。
乃木坂46がすごかったのは、高い音楽性を保つ一方で、いわゆる「楽曲派」と呼ばれるようなファンのみに訴求をしなかったところ。むしろ間口を広めて、『普遍的で良質なポップス』を追い求めていったところ。これは杉山勝彦の「君の名は希望」で決定的なものになる。
以前、杉山さんの講義を受けた時に、「クライアントに自分の音楽的凄さを見せつけても何にもならない。まず音楽に詳しくない人が聴いても選んでもらえる音楽があって、その中に自分の経験や技術を盛り込める人がいい作曲家」と、一語一句は正しくないのだけれど大阪での講演会で。
では、「風を待つ」とはどのような曲なのだろうか?往年の洋楽愛好家とか、一部の人しか知らないような外来語や横文字で特徴づけて語られたり、或は逆に、アイドルとはビジュアル的要素のみが追いかける対象で、楽曲はどうであれオマケである。そういうことでいいのだろうか。
〇「風を待つ」の音楽面の特徴
コード解析は誰かやってね(笑)。
・作曲家自身が「コーラス最高」と述べてるように、コーラスに積極的意義が見がいだせる作品。
好みの問題でもあるけど、頻度の高い男声の「ウォウウォウ」とか「イェイイェイ」に意義が見いだせない派。けれど、はじめてそれが楽曲の中で積極的な役割を果たしていると感じた。大瀧詠一というよりは山下達郎のオーバーダブに近いイメージ。オンザストリートコーナーのような。ただイントロからA、Bの♪シャララ~は松田聖子の曲でよく聴いたもの。これだけでどこか懐かしく、誰もがどこかで聴いたことのある音楽になっている。
・サビのフレーズで想起させるのは
The Ronettes - Be My Baby (Audio)
どこかで聴いたことのある曲。
「風を待つ」のサビを聴いて、「どこかで聴いたことがあるんだけど、誰だったか?なんの曲だったか思い出せない」という人が必ずいると思うけど、たぶんこの曲もその候補の一つ。直接的には繋がらないんだけどね。
ちなみに他のAKBGの曲もあと二つこの曲の中に隠れてる(笑)。
・ピチカート、ハープの重音グリス、カスタネット
どれもナイアガラサウンドの特徴を示すものとしていい味だしてる
・大サビのD♭
大サビで瀧野由美子が♪あ~やが~て~ と歌うところ。本来であれば♪F~EF~Dとなるのが自然な流れなんだけど、ひとつ落としてD♭としたところ。in Fなので臨時記号がここだけ(♮もひとつ)。このひとつの音が抒情感を際立たせる役割を果たしている。以前に杉山勝彦が「青空が違う」の中で本来なら下にさがるべき音でさがらないで横滑りみたいな譜面運びをしてたのと似てる。逆手にとった感じ。個人的にはグッ、ときてしまう。
・転調後
落ちサビのところから半音上がってF#に。ここからの展開のほうが非常にこの曲の調性感とマッチしていて、全体的に跳躍が少なくて順次進行な流れだし、F#のほうが耳にマッチした。
〇「風を待つ」から見えてくるもの
自分なりにこの曲の輪郭、背景となったであろうもの、音楽面での特徴などをとりとめもなく羅列だけしてみたけれど、最後に見えてくるものはなんだろう?まだよくわからないけれど、今の段階で感じることは、「風を待つ」は『普遍的で良質なポップスのひとつである』ということ。誰もが必ずどこかで耳にしたことがあるであろうメロディー、時代や歴史を超えて耳に親しみやすいサウンド、穏やかで中庸なリズム、聴くだけでその土地の情景(穏やかな海、岬、島、行き交う船)が目に浮かんでくるような歌詞。
これまで歴史が紡ぎ、人々のあいだに受け継がれてきた普遍的なポップミュージックの中に、瀬戸内の景色が見えてくる。
「瀬戸内の声」の歌詞の中で、♪時が過ぎ去っても この自然が幸せの目印だ という
歌詞があるけれど、音楽もいろんな時代を経て、音楽を支えるテクノロジーもまた変化を繰り返す。だけど、変化はするけれど、変わらない音楽というのもある。技術の進化とともに廃れる音楽や表現もあるけれど、カタチを変えながらもずっと受け継がれていく音楽や表現もある。
今回、「風を待つ」についてたくさんの人が(徳島新聞含)、ウォールオブサウンドについて述べていたけれど、変わっていく時代(技術)の中でも自然(美の本質)は残っていくんだよ。それが普遍っていうんだよ。と、言われているような気がした。
瀬戸内の景色の中に、この曲の本質が見えた気がした。
いま、ずっと撮影場所の共楽園でこのブログを書いています。(寒い!)
実際にメンバーのみんなが歌っていた場所で、踊っていた場所で、いろんなものが見えてきたし、聴こえてきた!運動会してた猫はもうどっか行った!
やっぱりみんな、瀬戸内に足を運んでみよう!訪れてみよう!
「風を待つ」を届けてくれたSTU48にありがとう!
〇最後に
ゆみりんかわいい!
(だいせんせ)