カレーズの少女
トルファン賓館の葡萄棚の下、次の目的地をどこにするか検討をしていたある日、同宿していたフランス人から
「カレーズに行ってみないか?」
と誘われた。
「カレーズ?」
と、最初言われた時には何のことかまったくわからなかったが、どうも彼がインテグレートとかアンダーグラウンド、ウォダートンネルなどと口走ってるのだけ理解できたので、これは地下の集水路のことかと思った。そういえば地理の授業でイランのカナート、中央アジアのカレーズと習ったなと。
よくよく考えると、このトルファンが砂漠の中のオアシス都市として存在為し得ているのはカレーズのおかげなのだと再認識もした。広大な砂漠が広がるこの地でなぜトルファンには斯くも豊かにハミ瓜、メロン、葡萄、小麦、綿花などの作物が実り、交易を求める隊商が大勢行き来し、バッザールが隆盛を誇っているのかと。すべては天山山脈の雪解け水を砂漠の乾燥から守る地下水路のネットワークを、ウイグルの人たちが長い歴史をかけて構築してきたからだと。
葡萄棚の下で私は「カレーズ」とはいったいどのようなものなのだろうか?どんどん興味が湧いてきて、彼にOKと伝えた。彼の話す英語をいまひとつ理解できていなかったが、どうやら宿の数名でクルマをチャーターして周辺の遺跡を含めて1日ツアーのようなことをするみたいだった。私としてはまさに願ったり叶ったりであった。
〇火焔山
チャーター一行はまず最初に高昌国の国跡(高昌故城)と交河故城を目指す。途中に「火焔山」を観たような記憶が残っている。西遊記で有名な。この写真ではまったくわからないがほんとに表面が赤く、もし遠く夕陽に照らされる情景を見たならばまるで燃えている山のように見えたことだろうと想像などしてみた。
〇高昌故城と交河故城
正直もう記憶が曖昧でどっちが高昌故城で交河故城だったのかわからない(笑)。
この頃はまだこの二つの遺跡はほぼ放置の状態。入場料みたいなものを取られるわけでもなく土産物売りもいない。普通に野ざらしにされているような感じだった。ここはもう完全に井上靖の小説の世界だったので私はすっかり興奮してしまい、同行者が呆れるくらいに遺跡じゅうを歩きまわり歴史の世界に浸りきってしまった。そして全体の予定を狂わせてしまうくらいに長居をしてしまい同行者みんなから顰蹙をかってしまう。
〇トラブル
写真の右に見えるのがみんなでチャーターした車。このときの人数は運転手1名、漢人のガイド1名、トルファン賓館に泊まっていた客8名の総勢10名だったと記憶。
少し時間を押しながらも(笑、遺跡の見学を終えて最後の目的地であるカレーズに向かう途中、
車が故障で止まる。
砂漠の道路の真ん中で立ち往生してしまう。
今から思い返すと、よくこういうことをやったなと思う。
正規の旅行会社の企画商品だったり、正規のレンタカーだったりした場合にはそれなりのリスク回避の手段やトラブルに遭遇した場合の何かしらの対処が施されているだろう。しかしこの車、このツアー、いったい誰がいくらでどこから借りたのか?そもそもガイドも運転手をどなたですか?みたいな感じ(超今更!。
この時私は21歳で人生で初めての海外旅。こういう時にこの先どうなるのだろうと考えてみたけれどもちろんわからない。結局、
みんなで押して帰ろう
という嘘みたいなほんとの話しでそういうことになった。
ここまでの道程から考えて、私は絶対に無理だと確信していたし実際に無理だということはすぐにわかった(笑。
携帯電話がない時代だったから、どこにも連絡をとりようがなく途方に暮れる。
まあここで死ぬようなこともないだろうし、どこかの集団に抑留されることもないだろうみたいな妙な安心感だけはあったことを今でも覚えている。もちろんその安心感の根拠は無い。あとこの時何を考えていたんだろう?みたいなことを今考えているw。
〇トラクター登場
時間が過ぎていくとほどなく、道路の向こうからでっかいトラクターのような車?がやってきた。日本では見ないような巨大なやつ。漢人のガイドがなにやら交渉してくれてどうやらどこかに牽引してくれることになったらしい。
それが驚くほど(歩いていけるくらい)の近くで、道路から少し奥にはいると小さな集落に出くわした。この集落にある無線機?を使って外と連絡をとるらしく、どちらにせよ我々客8名はひとまずこの村で休息することとなった。
〇カレーズ
村に足を踏み入れて暫く、どこからともなく村の子どもたちがわらわらーっと溢れ出てきて私たちのまわりに集まった。この子たちは皆ウイグルの言葉を話し漢語は話せない。同行者の中に漢語を話せる人間はいたがウイグルの言葉を理解できる者は無くもちろん筆談もできないので言葉でのコミュニケーションはできなかった。
けれども、この時の中国シルクロードの旅の中で最も印象強く記憶している場面、そして長い歳月を経てもなお私の頭の中に残っているのは、このウイグルの村での子どもたちである。皆人懐っこく、とにかくよく笑う。元気で活発な子どもたちの姿、皆の顔つきのよさというのか笑顔!がいちばんの旅の思い出となった。
車の修理がどうなったのかまったく覚えていません(笑)。
もう興味もなかった。
この時私はカメラ(当時最新のEOS)を持っていたのだけど、子ども等はみんなカメラに興味津々でやたらと自分を撮ってくれとせがまれた。けれどそんなにフイルムをもっていなかったしトルファンではフイルムの入手もできないので残念ながらみんなの期待に応えられなかった。
ところが子ども達のなかで殊の外私に懐いてきてくれてやたらと話しかけてきたり写真をせがんでくる女の子がいて、上の写真の左、赤のようなえんじ色、いかにもウイグルの色らしい服を着ている女の子がそう。名前も何もわからないし何を話そうとしていたのかもわからないけども、とにかく私の持ち物すべてを珍しがってはしきりとくっついてくる。
いつの間にか車も治ってしまったらしく(少し残念w)、トルファン賓館に戻ることとなった。最後の目的地カレーズに向かうことはできなかったが、実はここもカレーズだということだった。子ども等の写真を注意深くみていただければなるほどそうかとわかっていただけるだろう。そういえば自分も下(地下)に降りて涼んでいたなと。観光客向けに誂えてあるカレーズよりも、かえって実際の暮らしの中にあるカレーズを見れたことはよかったなと思っている。まあカレーズの記憶はほとんどないのだが。
とにかく砂漠の道路での立ち往生、からのどこともわからない集落への退避、子どもたちとの遭遇、あれはいったい地図上のどの場所だったのだろうと今振り返る。
トルファン近郊のどこか?としかわからない。
わからないことが幸せだ。
帰りのバスの中で漢人のガイドから言われた。
「私を日本に連れていって」
あの女の子ずっとそう言っていたよと。(あんたウイグル語できたのかい!)
1989年、日本は世界の中で輝いていた。
そんな時代のおとぎばなし。
(だいせんせ)
後記
〇このガイドによるとまとめのフランス人はお金をだまし集める
悪い人とのこと。
〇自分は善人だからいいところ紹介してやると言われた。
〇嘘かほんとかわからないが人民解放軍にコネがあって
兵器が打ち放題と言ってた。
〇どうもほんとだったらしい。わしは行かず。
〇自分には国があるということ。
パスポートを持って旅が出来るということは素晴らしい
〇たしかに烏魯木斉のような漢人が入植開拓して造った都市もあるだろうから
この地のすべてがウイグルの人たちのものなかはわからない。
が、千年の単位で彼の地でウイグルの人たちが育んできた風土はウイグル
の人たちのものでもあろう。カレーズに代表されるような。
〇2003、4年?いつか忘れたけど深圳のローフーの歩道橋のたもとで
ウイグルの不良にかこまれてボコられました。財布とられました。
でも漢人の女の子二人が助けを呼んでくれました。
めっちゃかわいい子でした(こらーっ!
もっと言えば日本人も同じです。よい人もいれば悪い人もいるのは
世界共通。上にあげたフランス人ではありませんが良い人の中にも
悪い所はあるかもね。かれはダライラマの信奉者で熱い人物でした。
〇日本と日本人は1989年の経済発展をどういう方向に持っていけば
よかったんだろね。