『命は美しい』考察
もうずいぶん前のことなのですが、2015年の6月に、11thシングル「命は美しい」のMVに関するコラムの原稿をお預かりしました。執筆をされた方は、大学で中世史の研究をされておられます。私も普段からよくおつきあいさせていただいているのですが、とても控え目な方で、「自分はマニアックな一介の乃木オタにすぎません」とは仰っていますが、その博識や知性にもまして、何より乃木坂46への熱い思いに心から敬服をしています。お名前を、まっしも関西さん(以下、関西さん)といいます。
もともとこの原稿は、関西さんに「書いてください」とお願いをして書いていただいたものです。せっかく、たくさんの時間、精神を費やして書いていただいたのにもかかわらず、今までずっと、“お蔵入り”状態にしてしまっていました。内容的に軽々に扱えないなと思ったと同時に、どの場所でどんなふうに公開すべきかをずっと逡巡していました。
しかし、先日のアンダーライブ広島での「命は美しい」を見てほんとに感動をいたしました。そしてあらためて、この曲のMVに思いを馳せることとなりました。
(だいせんせ)
〇『命は美しい』考察
乃木坂ファンにとって忙しくなるだろう、2015年の夏が近づいてきています。ドキュメンタリー映画の公開や、夏のツアーなどほんとうに盛り沢山で、そうした中でも、12thの発売を心待ちにしているファンももちろん多いことでしょう。筆者もその一人です。そんな12thが発売される前に、今さらながらというところもないわけではありませんが、今一度、『命は美しい』について考察してみようと思います。とはいっても、筆者には残念ながら音楽的なことを論じる知識はないので、今回取り上げるのはそのMVとなります。
ドラマ仕立てのことが多い乃木坂46のMVですが、今回その手法は取られませんでした。現時点で「乃木坂史上最も激しい」「最難度」と評されるダンスを伴っているのですから、これを「魅せる」ことに主眼を置いたMVになるのはある意味当然かもしれません。そんなダンスと同じくらいにファンの目を引いたのは、MV後半でメンバーが着用していた、ヨーロッパ風のクラシカルな衣裳だったのではないでしょうか。筆者も彼女たちの衣裳にたいへん強く注目し、そこからいろいろと気付いたことが、このコラムを書くきっかけとなっています。ただし、衣裳のことのみ書くわけではありません。このコラムでは、彼女たちが着た衣裳の考察から説き起こして、『命は美しい』のMV全体に込められた意味を、筆者なりに読み解いてみたいと思います。
なお、必ずしも衣裳の様式などは統一されていないようですが、多くのメンバーが高い襟で首元まで覆う衣服を着ており、全体的にはヴィクトリア朝期のものを意識しているように思えます。
さて、まずは筆者が衣裳にことさら注目するに至った経緯を書いてみましょう。普段目にする事の少ない、割と本格的にクラシカルな衣裳なので、とにかくそれ自体が持つ絢爛さ(と、もちろんそれを着るメンバーの美しさ)のみにただただ心を奪われてしまいそうですが、とはいえ一人一人が着ている衣服の趣きがそれぞれに大きく違うことには、みなさんもすぐに気付かれたことでしょう。例えば、MV2分40秒ほどからしばらくの間、白石麻衣と橋本奈々未が対峙するシーンが続きます。巷間言われる「ヴィジュアルの乃木坂」を代表する双璧が対なす姿は、時代物の洋画のワンシーンを見ているかのようで、息を飲む美しさです。けれども、そこに映し出されている二人の衣服は随分と違う印象です。衣服のみならず、二人が視線で交わす演技も対照的です。逡巡するように、いったん目を逸らしながら、決然と前を向く橋本奈々未に対して、その視線を受動的ながら、力強く受け止める白石麻衣――直接的に向き合うシーンは存在しませんが、交互に正面からカメラを見つめるカットの繋がりは、お互いを見つめ合っている場面と解釈していいでしょう。そしてその二人の関係性を、大きく異なる二人の衣裳が強烈に指し示します。文字通り19世紀を舞台とした映画のヒロインの如き白石麻衣の衣裳に対して、橋本奈々未はパンツスタイル――そう、彼女は男装をしているのです。このMVにおける衣服は、それを着用するメンバーの、この映像における属性を一目で表すために採用されていると思われます。つまり、白石麻衣と橋本奈々未は、もちろん女性アイドルグループ乃木坂46を代表するメンバー二人ですが、しかしこのMVの中での「彼女たち」は「男女」であって、それもおそらく恋人同士と思われるのです。
紙幅の都合で詳細に書くことはできませんが、現代とは違い、多くの社会においてかつて服装の男女コードは厳密に分かれていました。欧米の場合、女性の社会進出が顕著となる20世紀後半になるまで、乗馬など特殊なシチュエーションを除いて、女性が下半身のボディラインが露わとなる「パンツスタイル」の衣服を着ることは基本的にありえません。クラシカルな衣裳を着ている以上、「パンツスタイル」の衣服を着用しているメンバーは男装していると判断していいでしょう。こうしてメンバー個々の衣裳に興味を覚えた筆者は、より細かくそれらに注目するようになりました。男装しているメンバーは、すでに名前を挙げている橋本奈々未以外に、生駒里奈と若月佑美……。ファンならご存知の通り、普段から乃木坂46のメンバーの中では、いわゆる「コスプレ」をする際に、男装をする機会の多い顔ぶれです。実際のところ、それが似合うかどうかによって、着用しているメンバーを選んでいるというところはあるでしょう。ですから、筆者も最初このことに気付いた時は、単に「ああ可愛そうに、やっぱりななみんや若様は男装をさせられるんだな」とだけ思いました。これもファンならご存知のことと思いますが、橋本奈々未と若月佑美は、しばしば自分達が「男装要員」であることを歎いているからです。だからこの時も、むしろ「くすり」とファンが笑う材料だと思っていました。意外な人物の男装に気付くまでは……
MVの3分20秒目。可愛らしい二人(ただし表情は深刻ですが)の姿が映ります。齋藤飛鳥と星野みなみ。最近、「あしゅみな」として目立ってきている、乃木坂の年少メンバーです。最初は筆者も、選抜の中でも幼い、いわゆる「妹キャラ」二人をただ並べているだけだと思っていました。美少女二人のツーショットだと。しかし、衣裳の持つ意味に注目して見ると、まるでその意味は変わってきます。最初お互いを向き合っていた二人が、何かを決意したように正面を向き、並んで手を握り合うシーン。そこには二人の下半身も映っています。ふんわりとボディラインを包み込む星野みなみのスカート姿とは対照的な、足のラインも露わな齋藤飛鳥のハーフパンツ――いえ、半ズボン姿といった方がいいのかもしれません。驚いたことに、これもまた少年の衣服、男装なのです。クラシカルな衣裳であることを考えると、齋藤飛鳥の衣裳は決して少女のものではありません。ただお互いだけを信じ頼るかのように、ぎゅっと手と手を握り合っているのは、美少女二人ではなく、明らかに幼い少女と少年なのです。世界を睥睨し、拒否し、突き放すような、この幼いカップルの瞳は何を物語ろうとしているのでしょうか?
そして、3分35秒辺りから、齋藤飛鳥と星野みなみ以外の三列目メンバーのツーショット映像が立て続けに展開していきます。ここからはもう驚きの連続となります。まず映し出されるのは、泰然と包み込むように座す高山一実と、うっとりとした様子でその膝に額ずく堀未央奈。すっとカメラが引いていくと、ロングコートの下に隠れた高山一実の衣裳が、足の部分では二つの裾にきっちりと分かれているのが確認できます。もちろん、これが示すところは男装です。しかし衣裳に関して言うなら、もっと驚くべき記号が、実は堀未央奈の方に隠されているのです。彼女の衣裳は間違いなく女性のものです。この点はとくに奇異ではありませんが、実は彼女の衣服にはコルセットが入っていません。この二人が睦まじく寄り添うシーンでは判然としませんが、後のダンスシーンで確認していただければ明らかです。彼女のドレスは胸元で絞られているだけで、お腹から腰回りにかけては何の束縛もありません。ヴィクトリア時代の女性が着用すべきコルセットの不在。その暗示するところは――妊娠です。
次に映るのは相楽伊織と松村沙友理の二人ですが、後者の衣裳は普通の女性のものと思われます。いっぽう前者は、つねにゆったりとした外衣で包まれていて、頭に何か不思議な被りもの(貝殻? お皿?)を頂いているのが確認できるものの、その衣裳の細部はよく分かりません。ただし、全体に暗色の衣裳が多い中にあって、相楽伊織のそれは唯一明るい色調となっていて、他のメンバーの衣服と比較しての異質さを感じます。そしてその色調の故でもあるのでしょうか、筆者は初見の時から、このシーンでの相楽伊織の描き方そのものに何ともいえない異質感を覚えていました。その最大の理由は、誰しも気付くことと思いますが、このシーンの相楽伊織にかけられたエフェクトです。ほんの一瞬ではありますが、そのエフェクトによって、彼女は現実の物理法則から解き放たれたかのような動きをしています。そしてその相楽の存在がまったく見えていないかのような松村沙友理……。最初に見た時、率直に言ってこのシーンの意味はまったく理解できませんでした。しかし、堀未央奈が着ている服の意味に気付いた時、このシーンの意味もまたはっきりとその輪郭をあらわしてくるのです。ここでの相楽伊織は、この世のものではないように見えます。そして、そんなこの世ならざるものから、女性の耳元で囁かれる言葉。そっと伝えられる秘密。思いがけない知らせ。頭に光輪を頂いた天使から女性に伝えられる預言――もうこれは、あのモチーフを思い出さざるをえません。新約聖書の『ルカによる福音』で語られ、フラ・アンジェリコやエル・グレコなど、多くの画家がその題材とした、あのあまりにも有名なモチーフ――「受胎告知」。
もうここまでくれば、伊藤万理華と衛藤美彩のシーンの持つ意味は、雄弁とさえ言えるほどに明らかです。伊藤万理華の衣裳にも、コルセットは入っていません。そして、そのコルセットの入っていない、伊藤万理華のお腹に、そっと手を回す衛藤美彩。それはとても繊細で、慎重で、そして愛おしむようです。二人は、女友達なのか、姉妹なのか、母と娘なのか、それは映像からは分かりません。けれども、この二人の女性が慈しむもの。伊藤万理華のお腹に宿り、すくすくと育つもの。それこそまさしく、生命以外のなにものでもないでしょう。そして、それらのシーンに重なって、選抜メンバーの声が切々と、しかし力強く歌い上げます。「人は約束してる……次の未来」と。
クラシカルな衣裳の下に覆い隠しつつ、むしろそのクラシカルな衣裳が持つ記号性をうまく利用して、先述したMVの一連の流れが生命の誕生を描いているのは明らかなようです。しかし、MVに散りばめられたイメージは、そうした「生命の誕生」を思わせるものばかりではありません。むしろMV全体を通して、強く暗示され続けるのは、「死」であるようにも思えます。様々なメディアにおいて、メンバーの口から、このMVの撮影が厳冬期のひじょうに過酷な環境の下で撮影されたことが語られています。撮影においては、発売の時期を考慮して、吐息が白くならないようにとの指示が徹底されていたようですが、しかしそれでも、MVに映る映像から、凍えるような冬の情景を想像した方は多かったのではないでしょうか。
それは、「白い息を吐くな」という指示を課されたメンバーの努力不足によるものではなく、組まれたセットや光の演出などから連想されるものです。到底力強いとはいえない蒼褪めた光。青や濃緑、黒を基調とする暗い画面。そして何より、MVの背景として映し出された木々は、全て凍てついているかのように色を失っていて、そのどれ一つとして、花や実はもちろん、葉の一枚さえ付けてはいません。これらはどう見ても冬の情景です。冬とは、死の季節に他なりません。
力を失った太陽の光は植物を育てることができず、一年性の多くの草花は文字通り死に絶え、それに依存する虫や小動物も姿を消して、自然界のあらゆる生命活動が停止します。そんな理屈を持ち出さなくともいいくらい、漆黒の空と白骨のような木々で埋め尽くされたMVの映像は、荒涼とした死の風景そのものに見えます。この曲が初解禁となった『西野七瀬のオールナイトニッポン』に出演したメンバーの高山一実は、このMVのイメージを「黒」と言っています。MV全体として、(もちろん美しくはあるものの)暗く陰鬱な印象は強いのではないでしょうか。
ふたたび衣裳に目を移すならば、とくに死を強く感じさせるのは、11th時点でのメンバー最年長者である、深川麻衣と松井玲奈が身に纏うそれです。二人が着ているものは、葬送の喪服のように見えます。深川麻衣の衣裳は、比較的肌の露出も多く、下半身は紫色なので断言しがたいところもあるのですが、MVの3分12秒のところで彼女が被っている漆黒のヴェールは、どう見ても喪に服するためのものにしか思えません。漆黒の衣を纏うにふさわしい者として、最年長者二人が選ばれたのは偶然でしょうか? 人の一生が、死へと向かう道程であるならば、メンバー最年長とはつまり、相対的とはいえもっとも死に近い位置にあるといえます……それはさすがに穿ち過ぎでしょうか?
ところで、死を連想させるといえば、このMVを考える上でひじょうに重要な要素が、もう一つあります。それは、多くのメンバーが流す黒い涙です。これは見た者誰もが容易に気付くことですが、あれらは、流血のメタファー以外のなにものでもないでしょう。それは、血液の喪失とその結果の死を強く暗示します。実際に、あのどす黒い涙から、不吉なものを感じ取った人も多いのではないでしょうか。しかし実のところ、血は、それが流れ出ることによって死を暗示させると同時に、生命そのものの存在をも強く指し示します。血を流すことそのものが、生きている証だからです。さらに言うならば、「月明かり」を思わせる青白い光の中で密かに流される血。男装をした橋本奈々未が花を散らした後に、その恋人役の白石麻衣の掌から溢れ出る血……これらの強烈過ぎる隠喩が示すところは、生=性なのではないでしょうか。流血は死をあらわすと同時に、生命の誕生をも暗示するのです。生(性)と死――血というメタファーが、図らずもその両義を持つように、生と死は分かちがたく表裏一体です。生があるから死があり、死があるから生がある……
先ほど、筆者はこのMVの情景を「冬」と断言しましたが、それは少しばかり読み違えているかもしれません。ダンスを含む曲の全貌が発表されたのは、2月22日、最低気温2度の極寒の西武ドームでした。しかし寒さ厳しいとはいえ、この時期、もう冬はその最終盤です。それから様々なプロモーションを挟んで、CDが実際に発売されたのが、まだ冬の名残りが感じられる早春の3月18日。こうした発表から発売にかけての時期や、MV撮影時に、決して白い息を吐かないようメンバーが指示されていたことを考えると、このMVの情景は、厳冬のまさにただ中ではなく、晩冬から春へと向かう一瞬の時期を切り取っているようにも思えます。実際、2分34秒からのシーンや、3分2秒からのカットなどでは、ただ凍てついているだけに見える木々に、微かに芽が萌え出ているらしい様子が見て取れます。それらは、死の季節から、生命の季節への変わり目を指し示しているのでしょう。繰り返される生死の営みと、その刹那の一瞬――これこそ、このMVが描こうとし、「生命の美しさ」「生命の逞しさ」と呼ぼうとしたものではないのでしょうか?
循環する生と死――ここまでMV前半についてはほとんど触れてきませんでしたが、ダンスシーンのセットは「世界樹」、あるいは神話学でいう「生命の木」をあらわしているように見えます。そして、オブジェとしてのその構造は、一つ一つは弱々しい軌跡が、それぞれに螺旋を描きながら、縒り集まって一本の幹を成すというものになっています。ぐるぐると煩わしい回転を繰り返しながら、それでも少しずつ上昇していく細い細い螺旋。それこそまさに、一つ一つの命のようです。生まれ、子をなし、やがて自らは死につつも、未来へと生命の連環を繋いでいく、生きとし生けるものの定めのように見えます。
生命の誕生の喜び、出会いや成功の愉悦、失望や挫折の悲しみ、病や死の恐怖、そして別れ――意味があるのかないのかも分からない、その果てることなき営みは、喜ぶべきものなのでしょうか? 悲しむべきものなのでしょうか? MVのラストは、散りゆく羽毛が舞い上がり、映像が逆転し始めるカットをつないで終わります。散りゆく羽毛が、砕け散った命を暗示しているとするなら、それが逆に動いていく様は、生への回帰をあらわすのでしょう。そうやって繰り返される命の営み。ラストの映像はおそらく、永遠に反復される生と死を象徴しているのでしょう。その反復される生命の営みを、文字通りただ一人で、本作センターの西野七瀬は見つめます。彼女の目に、このあくなき生死の繰り返しはどう映っているのでしょう? じっと何かに耐えるように目を据えている彼女の表情が、決して喜びを示していないことは明らかです。むしろ、彼女はその辛さをこそ見つめているかのようです。では、彼女は嘆き悲しんでいるのでしょうか? それも違うように思います。彼女は涙も泣き声も出してはいません。握り締められた小さな小さな拳……。そっと閉じられた目は、何かから視線を逸らしていたというよりも、何かを決意していたように見えます。自らが見つめるものの厳しさにうち震えながらも、決して逃げることなく、挑もうとしているように見えます。――私は私なりに、私の生命を生き抜く――どうしようもない不安を湛えつつも、決して揺るがず、逸れることのない彼女の眼差しは、そう決意しているように筆者には思えるのです。そして、そうした西野七瀬の真摯な眼差しは、哲学的とも思えるMVのメッセージを、ふたたび等身大の私達の次元へと引き戻してくれます。一人一人、一回限りの生を、悩み苦しみもがこうとも、生き抜く――それが、美しく、逞しく、そしてはかない命の進むべき物語なのだと。
(ライター:まっしも関西)