体育館の天井までJUMPしような!代々木ガールズルールクロニクル

代々木という場所と、「ガールズルール」という曲に特別な想いをどうしても感じてしまう。乃木坂がまだ知名度も動員力もなにも無い時代に、Zeppクラスの箱で全国ツアーをまわっていた時代に、はじめて1万人規模のアリーナでライブを行った場所が代々木第一体育館だった。その年のツアー、座長は白石麻衣、表題曲は「ガールズルール」だった。

 

同じことを何度も言ってるんだけど、「ガールズルール」って最初からいまのような地位を得ていたわけではないと思うんだ。

 

 

いまでも音源公開直後に言いたい事ボロカス言って、でも1か月後くらいに神曲!とか絶賛に転ずる乃木オタ特有のてのひら返し(笑)ってあるんだけど、その歴史的起源も「ガールズルール」にあると思うんだな。

 

なにせ、「君の名は希望」で乃木坂にたどりついた人たちからすると、”もうAKBみたいな曲はいいんだよ”、みたいな気持ちになったのはすごくわかる。

 

 

あと、なぜ代々木という場所が関係しているのかというと、夏のZeppツアーの終わり、総まとめ的な追加公演として代々木FINALが発表されたとき、ファンが感じた高揚感、ひとつ昇級を果たした感覚、ひとつ坂を超えた感覚、そんな昂ぶりが代々木という言葉にくっついていると思う。

 

さらにこのライブ、スカパーかWOWWOWか忘れたけど放送があって、また永くその××動画がアップされてたように記憶してる。いま乃木動画で普通に見られるのかな?乃木坂46のメディアへの露出がそれほどでもなかった時代に、曲調の親しみやすさも相まって、ガルルと乃木坂が大きく広まるきっかけにもなったんじゃないかな。

 

乃木坂は「君の名は希望」でブレイクしたとされているのが正史ではあるんだけど、正史ってしばしば誇張を含んだり時に事実ではないものを正史とする例は歴史の中にたくさんある。もしかしたら乃木坂はガルルでブレイクしたのではないだろうか?そういう思いに駆られる時がある。だって、”この人あほちゃうか?”って思うくらいにライブでみんな盛り上がってるし、地蔵だったおじさんが突如狂ったように踊り出すし、ほかの曲にはない解放区が「ガールズルール」があるように思えるんだ。それは代々木で定説化、定着化したように思うんだな。

 

あとセンターを務めた「ガールズルール」の顔、白石麻衣が(結果として)卒業していった場所も代々木だったことも印象を強めている。2013年の代々木FINALでは最初に演じられたこの曲が、2020年の卒業ライブでは最後に演じられた。みんなが大好きだった数々のまいやんの煽り、それは代々木ではじまり、代々木で閉じられた。そう言っても言い過ぎではないと思う。

代々木FINALは1期、2期のみの時代だっちゃんだけど、3・4期生ライブでもって3期生と4期生も代々木で「ガールズルール」を演じることになる。やはりセトリとしては前のほうで。

 

乃木坂の活動の特徴として、ガールズアワードに代表されるようなランウェイイベントへの出演というのもがあげられるけど、これを牽引していたのが言わずもがな白石麻衣で、(多くが代々木で開催されていた)ガルアワへのイベント出演時、やはりこの曲は欠かさず披露されていた。”今日も代々木でガールズルール”として。

 

あと、自分はまったく参加できなかったけれどフェス的な大型音楽イベントやハロウィンのような季節の音楽イベントも代々木で多く開催されていて、アンダーメンバー含めた乃木坂の出演もかなりあったように記憶している。その都度のセトリはもう覚えてないけれど、なにせ「ガールズルール」は必ず披露されていたように思う。

ライブ曲、沸き曲、フェス曲、代々木には欠かせなかったガールズルール。

 

そして、今回ついに5期生が乃木坂スター誕生!ライブで代々木の地に立つことになる。この10年、すべての期生で貫かれてきた代々木ガールズルールがガールズルールクロニクルとして完成しようとしている。あまりに楽しみでならない。

白石麻衣という絶対的な顔を持つ曲にもかかわらず、この曲はすべての期生であまねく演じられ、多数のセンターを産み、広くファンの満足を生み、グループの外への伸張力も強く、多くのファンを獲得し、乃木坂にとって第一級の貢献をしてきた。

 

人の人生にも大きな影響を与えてきた

 

 

こんどの乃木坂スター誕生ライブは代々木ガールズルールクロニクルとして乃木坂として節目になるイベントとなる。それはネクストディケイドの出発の地がまた代々木であることを意味するから。

いつか乃木オタが代々木第一体育館の天井をガルルジャンプで突き破る日がくるまで。

 

                             (だいせんせ)

苦しい、苦しい、苦しい

ピアノ5重奏をベースにしてポップスに置き換えたかのようなアレンジ。

美しい。

イントロが16小節+1小節、時間は30秒。

前作表題、「人は夢を二度見る」も16小節、30秒。

 

きっかけ 16小節 30秒

サヨナラの意味 16小節 30秒

沈黙した恋人よ 8小節 14秒(倍あってもよかったし欲しかった

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ロビンソン 16小節 34秒

Pretender 12小節 30秒(BPMが100以下なので

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

OIDEMASE!!~極楽~  16小節+2小節 24秒

トライアングルドリーマー  16小節 25秒

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

群青 0小節 0秒 

アイドル 0小節 0秒

 

 

この頃はマーケティグ上の要請なのか?イントロそのものが無い曲のほうが多いような気がするし売れているような気がする。自分はしっかりとイントロがある曲が好きなので、「人は夢を二度見る」がそうだったように、「考えないようにする」も、上品でありながら、でも重厚で堅実なイントロの構成がとてもいいと思う。

 

ライブの演出などにおいても、イントロってすごく重要になってくることがあると思う。場面転換とか。また「サヨナラの意味」のイントロは特別で、あの30秒の間に起こっている聴衆の心理状態、心の平静を装うのに必要な時間が29秒、でもラストの1秒でその気持ちが大崩壊してしまう。「サヨナラの意味」のイントロは約束された30秒だと思う。

 

で、「考えないようにする」は16小節のイントロの最後に、仕上げのもう1小節がくっついている。贅沢だ(笑)。このとき冨里奈央はどのような表情で待っているのだろうか?見ている人はどんなことを思いながら歌を待つのだろう?このドラマがある時点で既にこの曲は名曲。イントロが生む曲と人のドラマ。

 

苦しい、苦しい、苦しい

満面の、はち切れんばかりの、溢れ出る、どれも笑顔にかかる言葉だけど冨里奈央ほどこれらの言葉が似合う人はいない。笑顔が代名詞のような彼女がどんな顔をして、苦しい苦しい苦しい、と歌うのか。たぶん1年経ってしまったら彼女も成長をして同じ顏では決して歌わない。願わくば、神宮での初回パフォーマンスを実際にこの目で見たかったと。それが叶わないことが苦しい。

 

〇アウトロ(後奏)
イントロと同じように曲終わりアウトロ、ここも16小節+1小節。「君の名は希望」がそうだったように、杉山さんの楽曲って、きちんと装丁がなされた本の頁をめくる読書体験(音楽体験)であり、頁をめくり最後に頁を閉じる満足感と幸福感に包まれる。

特に最後は小林武史が書いてSalyuが歌った「Halfway」と同じ終止。4分50秒の曲が1本の映画にも重なる。

 

〇コール

コールを入れやすい構成ではあるけど、できればコール無しで聴きたい。

 

ある考察「君の名は希望」DANCE&LIP ver.

乃木坂46のライブで「君の名は希望」が演奏されなくなってから、すでに久しい。

グループの象徴のようであったこの曲も、メンバーとファンがごっそりと入れ替わった今では、少し位置づけも変わってきているのだろうか。

アイドルであれバンドであれ、グループで活動している集団にとって難しいとされているロールオーバーをここまで成功裏に収めたことは本当に素晴らしいことであるし、稀有な例である、と表現している人(著名な作曲家)もいる。

一方で、この曲で乃木坂46のことを知り、ここからファンになった自分のようなものにとっては、「君の名は希望」がグループから少しずつ遠くなっていく、そんなふうにも思えて一抹の寂しさを感じることもある。

変化は受け入れつつも、5期生の大活躍に大いに喜びつつも、実は心の奥底に否定とも肯定ともつかないような、複雑な気持ちを抱えている。

 

〇ある考察

もしかしたらこの先、「君の名は希望」はグループからさらにもっと遠い存在になっていくのかもしれない(それは乃木坂が健全な発展を遂げ、これからも成長しつづけていくという証左としての)。たぶん、そうなっていくのだろうと思いながら、いま、自分の記憶のなかからも消え去ろうとしているある考察を備忘録として書き残しておきたいと思った。

 

この曲のミュージックビデオに関する考察で、当時の仮めんばーの投稿欄に載り、とても印象に残ったものの、考証の内容や文章の難易度が高く、自分には追い付いていけないものだった。いったいどこのだれが投稿したのか、もちろんわからないし、同じ土俵に立って議論できる人もさすがに無く、議論もそれほど深まらなかったと記憶している。

 

今回、この投稿した人をAさんとし、Aさんの考察の骨子(ダンテの『神曲』)を自分が覚えている範囲で、少し自分の解釈も加えながら書き残していきたい。

その前に。

 

〇そもそも、「君の名は希望」のMVはなぜ2種類あるのか?

2013年3月13日に予定されていたシングルの発売に先立ち、2月18日に「君の名は希望」のMVが公開された。監督は「リンダ リンダ リンダ」の山下敦弘、25分間の超大作MVであった。この日偶然、自分は無料動画サイトでこのMVを見て、”なんじゃこれは?”とあまりのわけのわからなさに混乱しながら、いったいいつ曲が始まったのかも全然わからない!、けれどいつの間にやら勝手に泣いていた。観終わってすぐにもういっかい観直したらまた泣いた、それの繰り返しで、とにかくこれまで体験したことのないような映像体験と音楽体験をした。ここが自分の中の乃木坂のはじまりだった。

当時、これまでに例を見ないような、体験したことのないMVだった。


www.youtube.com

 

ところが一方で、このMVに対して内心忸怩たる思いを抱いている人たちもいた(このあたりは後々になって各種雑誌のインタビュー等でわかってきたことなのではあるが)。当時の秋元康の方針と、加えて個人PVの制作のすすめ方等にも共通して言えたことは、製作者(クリエイター)に任せて運営サイドはその内容について細かな注文はしない、ということ。山下敦弘監督も秋元康から「すべてをお任せします」と言われて制作を引き受けたとインタビューで述べているし、MV以外の、個人PVでも各クリエイター(新進気鋭の若手が多かった)に任せることで、彼らが自由に才能を発揮できる環境を用意することで、そこから生まれた名作品、花開いた才能も多い。


www.youtube.com

ただ、任せることがいつも良い方向に働くとは限らず、任せてはみたものの、自分たち(運営サイド)の期待している内容にそぐわないケースというのもでてくる。それが多少なのであれば許容もできるのだろうが、山下監督ver.の「君の名は希望」はあまりにもそれが大きかった。自分のようにな「すごく感動しました!」と高評価をつける人もいたのかもしれないが、察するに、「このようなMVでは曲の良さもメンバーの良さも伝えきれていないのではないか?」と危惧した人たちもいたのだろう。

とはいえ、MVは一つの作品にひとつ。これがだいたい普通(最近はそうでもないらしいが)。事の真相は完全に明らかになっていないものの、秋元康の肝いりで、”自由にやってもらって結構です”条件で制作した山下監督ver.を差し替えることは絶対に不可能、けれどもこの曲に賭ける運営側の意思(意図)も表明したい、こういうことから異例ではあるけれど、シングル発売からおよそ一週間を経て、「君の名は希望」MV DANCE&LIP ver. なるものがyoutubeで公開された。


www.youtube.com

 

監督は丸山健志が務めているものの、自分の中ではこれは金森さんの考えが強く反映されたものと受け止めている。前置きが長くなったのだけど、記憶に残しておきたい考察というのはこのDANCE&LIP ver.に関する考察のこと。 

 

 

 

〇考察のおもな内容

 

2コーラス目

♪人の群れに逃げ込み、の場面から、扉のようなものが開き奥に進んでいくが

中がとても暗く、住人(オーケストラの人々)は目を覆っている(或いは目、或いは視覚を失っている)。メンバーも目を覆うようなしぐさをしながら中に進んでいく。

 


ラストサビ

♪真実の叫びを聞こう さあ

からのラスサビの場面で一転、照明が明るくなると同時にメンバーは

来た時とは進行方向を逆に進む

そして、センターの生駒里奈だけが、ある門をくぐる

 

・進行方向の矢印が示されている?ようなセット

・何か意味がありそうな?ゲート(門)

 


これらのことから、Aさんはこの場面はダンテの叙事詩神曲』の地獄篇に登場する地獄の門を描いているのでは、と考察したのです。

Lasciate ogne speranza, voi ch'intrate.
(汝らここに入るもの一切の希望を棄てよ)     ※山川丙三郎訳

暗い門をくぐり、希望を棄てて、何も見えないほどの暗い地獄の世界、或いは目を覆いたくなるなるような惨状が繰り広げられている地獄の世界で、”真実の叫びを聞こう”と声をあげ、踵を返し門の外に出ようとする乃木坂メンバー、その中でも、生駒里奈ひとりだけが門をくぐることによって、この門が象徴しているものを明確にしているのではないかと。

君たちの名は希望、ではなく「君の名は希望」なのだと。

 

Aさんの考察とは概ねこのようなものでした。

 

(個人の感想)

地獄の門説はとても面白いと思った。

世間の一般的イメージである、ロダンが『神曲』から着想を得て制作した地獄の門と比較して、このゲートはあまりに簡素すぎるので考察は間違っている、とするむきもあるかもしれないが、以前よりバイロイトなどでかなりコンテポラリーな方向で衣装もセットもガラリ変えてくるということは行われてきたので、荘厳で重々しい地獄の門がスラリとシンプルなものに変わるという演出は普通に有りだと思う。

 

演出の人に、そのような意図はまったくありません、と笑われるかもしれないが、いちど作家の手を離れた作品の解釈は見る人に委ねられると思うので、こういう解釈を出来る人がいること自体、乃木坂の世界とそのファンカルチャーは豊饒の世界だなといつも思う。

いつの?

どの?

だれの「君の名は希望」が好きですか?

                             (だいせんせ)

 

 

神宮行きたかったな、涙

 

『モンパルナス1934』を予約した

ディアフレンズに村井さんが出演されていたのも聴いていたし、早く買って

読まないと、と思いつつ今は親の介護に加えて新しい生活がもういっこ増えて

しまって、普通に暮らす以外に何かを追いかける時間がほんとない。

とか言いながら、さすがに書評も出回り始めて、もうそんなに日が過ぎたのかと焦る。

 

これは自分の中のテーマなんだけど、日本が外来音楽を受容した時期というのが歴史上4回あって、

①701年、朝廷に雅楽寮が設置されたとき

織田信長やその他の大名、領主らによってキリスト教の布教が許可されたとき

③1879年、政府(文部省)に音楽取調掛が設置された時(伊沢修二ですね!)

第二次世界大戦後、連合国(アメリカ)による占領期

自分はいつもこの4つの時期を考えながら、日本と日本人がどう外来音楽を受け容れてきたかについて考察するようにしてる。(その後の日本音楽としての発展形態と)

 

おそらく、今回出版された『モンパルナス1934』は特に④において新たな視座を与えてくれると予想している。つまり、戦後日本の音楽は米軍キャンプで演奏されたジャズから始まったとされる定説のようなものがあって、それは確かに渡辺晋、原信夫、ジャニー喜多川北村英治堀威夫、日本の芸能界、プロダクションを作ってきた人たちの名前がでてくるからそれはそうなんだけれど、僕は服部良一の仕事なんかを見ても20年代の上海だったり、同年代のパリ、ここらへんの影響も考えるべきなんじゃないのかなと思ってきた。実際、みのミュージックが同じようなことを言ってる(みのさんって、小泉文夫伊沢修二のことまで調べててほんとにすごいと思う)。

 

この本の詳しく書かれてあると想像しているのだけれど。ソ連スターリンに迫害された芸術家や文化人と、ドイツのヒトラーに迫害を受けた同じく文化芸術人が押し出されるようなかたちでこぞってパリに集結する状況がうまれたのが1934年。

それがドイツによるパリ占領で彼らは一斉にニューヨークにわたる。

パリを引き継いで、ニューヨークで華開いた文化が戦後の日本に伝わる。

だから④を考えるとき、20年代から30年代のパリについて考察する必要が必ずあるのだと思う。

 

〇1960年代洋楽摂取と洋楽の受容態度

ザ・ワイルドワンズが(後に有名となる)リサイタルでビートルズの「Because」をカバーする。

ところがその時には「Because」の音源はまだ国内で発表されておらず(厳密にはリサイタルのあった日には発売されていたらしい)、ワイルドワンズのメンバーはどこから音源を仕入れてカバーすることができたのか?ネットも無ければ、通信事情も貧弱な時代に。この謎!

「Because」がどれだけの難曲であるかは聴いた通りで、たとえ、譜面だけ仕入れることができたとしても実演までにはおそらく至らない。不可能だと思う。

 

同じ時期に、ザ・テンプターズが「Jumpin Jack Flash」をカバーシングルで発売する。

こっちは比較的早い段階で日本版も発売されているのだけど、それでも短期間のうちにカバーして自分たちのシングルとして発売できたことは異例。

 

ワイルドワンズテンプターズの事例だけを見ても、当時、最新の海外音楽に現地でリアルタイムでアクセスできる人がいて、それをただちに日本に持ち帰って広め伝えていた人が存在したこと、かつ、そういう交流場所が日本のどこかに存在していたことが容易に想像される。

ぱっと思い浮かぶのはまずレコード会社の人や音楽関係者はなんだけど、彼らのことは当然含みつつも、実はそこにいたのはファッション業界の人たち、小説家や芸術家のような文化人、裕福な学生たちがいた。なかでも特筆すべきなのはファッションモデルでデザイナー、トヨタのワークスレーサーでかつ実業家、慶應の大学生だった福澤幸雄(

福澤は25歳でトヨタ7のテスト走行中の事故で死亡)。

そして、場(サロン)としてのキャンティがここにある。

著者の村井さんは親と食事にいって、ここに集う大人たちの会話を聞きながら成長した。

 

テンプターズに「いつまでもビートルズの時代じゃないぜ、ストーンズだぜ」と言ったのが福澤その人であるかどうかは知らないけれど、ザ・スパイダースかまやつひろしが「ノーノーボーイ」で彼のことを歌っているとも聞く。かまやつがゴロワーズを覚えたのはもしかしたらキャンティだった?かも。

 

注目されている今回の『モンパルナス1934』、お話し的にYMOと細野さん、となっていくのも仕方ないと思いつつ、帯に「YMOの世界進出」とか書いてしまうと物語全般がそこに引っ張られすぎないかな?と読む前の段階ではちょっとうーん。

キャンティが果たした役割ってほんとに幅が広くて、今に直結しているお話し。

戦後日本人が洋楽をどのように受け容れていったか、その後日本の音楽としてどう発展していったか、そういう文脈のなかにキャンティと川添氏、村井邦彦さんが間違いなくいる。

 

〇渋谷で

オーチャードホール村井邦彦さんご自身が企画されたコンサートを見る機会に恵まれたんだけど(チケット入手してくれた方感謝です!)、開演前のロビーの雰囲気がそれまで見たことも経験したことのないくらいにノーブルでセレブリティだった(笑)。

あきらかに普通の客層と異なっていて、上手く表現できないけど、とりあえず100年くらいは東京都内、ただし山手線より内側エリアにずっと住んでそうな人たちばかりだった。こういう人たちってお金や資産を継承してるだけじゃなくて結局、文化を継承して発信してる人たち。

今思えば、ほとんどの人たちがキャンティの常連のお客さんだったのだろうな、と、

(そこに出演した生田絵梨花さんってまじすごい)

 

〇アルファ

アルファが果たした役割なんてもういまさら語ることもないんだろうけれど、ひこうき雲からYMOまで続く時代のことがよく書かれてたりする。

だけどちょうどいま話題になったしまったスマイルカンパニーにしても元はアルファからスタートしてるわけで、スマイルのワークスってジャーニーズだけじゃない例えば乃木坂46にだってしっかり派生しているわけで(「無口なライオン」は名曲!)、キャラメルママ的なところに(狭く)集約していくべきではないのかなと。

 

藤田嗣治のこと

この本とは関係ない話しにはなってくるのだろうけれど、1920年代に藤田嗣治ってパリの寵児(というか世界の寵児)になっていくわけじゃないですか。その残像残る34年のパリ、岡本の名前は出てきてもフジタの名前はきっとでてこないのだろうな。第二次世界大戦の後、パリに戻りたかったフジタをパリは拒絶しますよね。このへんフランス、パリの人々はフジタに対してどういう思いを持っていたのかな?という問題、ずっと気になる。彼はほとんど亡命みたいなかたちで結局ニューヨークに渡るんだけど(その後はパリに戻れた)、戦争の推進に芸術家が加担してしまった、或いはさせられた、そのことについて整理できない気持ちがある。

1934年にパリに集った人たちは戦争と迫害を逃れていわば平和(文化)を創ろうとしていた人たち、だけど祖国に尽くそうとしたことがもう片方の戦争に加わってしまうことにもなる。最終的に日本国籍を捨てたフジタの思い。

 

 

 

 

 

人は夢を二度見る/池田瑛紗


これだけ時間が経過しても尚、心の動揺が鎮まらない昨日の報せ。

こういう体験はない。

やがて、もっと時間が経っていけば忘れてもとの時間に戻っていくのだろうけど、少し今の面持ちをどっかに保存しておきたいと思った。

 

 

この報せのどこがいちばんのショックだったのか?

それは一度は諦めた夢を、いや、諦めたと思っていたこと自体がそもそも間違っていて(ファンの勝手な空想)、池田瑛紗が夢を諦めていなかったこと。

だいだいさんのツイートを引用。

 

 

レギュラー出演している「なんて美だ!」の美大特集の放送回でも東京藝大について、”目指していたこともある”と過去形でコメントしていたので、だからもう諦めたものと思っていた。少し見ていて辛いというか、てれちゃんはどういう心境だったんだろう?とか思っていたのだけど、いったいなんだったんだ(笑)。

 

どんな言葉を重ねても陳腐な表現にしかならないのだけれど、ほんとうに素晴らしい!
この世に生きる、ほかの誰にこういうことが出来ただろう。

およそ1年前、ドキュメンタリーが公開されたその瞬間、”この人だ”(上手く言えないけどHe is the Man!のような直感)と思った日を思い出して、まだ気持ちも体もぶるぶるとしている。

 

西野七瀬のことを、”私の憧れの存在です”とステージ上で語った「他の星から」の記憶がまだ新しいように、池田瑛紗を乃木坂へと導いたのは間違いなく西野七瀬であり、彼女が乃木坂を知るきっかけとなったのが「帰り道は遠回りしたくなる」であることはよく知られている。

 

帰り道もそうだけれど、今回、報告を聞いて思い浮かべたのは西野七瀬の「ごめんね ずっと・・・」のMV。監督はあの山戸結希。

もしも、自分がアイドルとは別の人生を歩んでいたなら、、

人生が二つあったのなら、、

 

たしかに賛否はあったけれど、いろんな示唆に富む作品であったことは間違いないと思う。そして、誰しも自分の人生はひとつ、夢はひとつであることを教えてくれる作品だったとも思う。

 

転じて、「帰り道は遠回りしたくなる」。監督は関和亮

今から思うと、池田瑛紗はこの曲どこが、或いはこのMVのどこが良くて乃木坂に興味を持ったのだろうと思う。この作品を契機として新規に乃木坂のファンとなった人たちが少なからず存在して、ひとつの層を形成しているのではとずっと思っている。

勘だけど。

人生の分岐点、「if」をテーマとした作品なのだが、自分がいちばん好きな場面は次の場面。


アイドルという人生を選択した西野七瀬と、美術学生を選んだもうひとりの西野七瀬がお互いに”ありがとう”を交換するシーン。ここから、

”夢は託すことで、それを自分の夢として叶えることもできるのではないか”、と自分は感じとりました。

アイドルという職業、存在を象徴する場面のように感じました。

 

”憧れである西野七瀬さんのように自分もなってみたい”、このMVを見てそう感じたであろうことはすごく自然なことだと思うし、普通の感情だと思う。一方で、藝大への夢も諦めたくない、という気持ちももちろんあったろうし、寧ろ、乃木坂オーディションに合格する可能性のうほうが非現実的だったろう。

 

彼女の乃木坂合流が発表された日付と、その時の藝大合否の日付との関係を云々する噂はたしかにあったけれど、今思うと一定の信ぴょう性はあったのかもしれない。ただ、もしそれが本当だったとするとそれが意味するのは、両方を選ぶことはない、二つの夢を同時に叶えることはない、ということである。

                      (森を抜けて旧東京音楽学校の校舎から、東京藝術大学へ)

ふわりとした憶測や噂よりも、生身の人間の努力と生きざまはそんなものをやすやすと越えていってしまう。

 

藝大に合格することも、乃木坂メンバーとして活動することも、どちらも自分の人生にしてしまおうと決断したことについて、「帰り道は遠回りしたくなる」と西野七瀬の存在は、とても大きなものだったのではないかと思う。

 

ちょうど明日には店頭にも並ぶであろう新曲『人は夢を二度見る』。

最後を締めくくっている歌詞は

 

 

    今ならちゃんと夢を見られる

 

 

偉大なり、乃木坂46

                                     (だいせんせ)

 


www.youtube.com

 

 

(追記)

 

乃木坂スター誕生で乃木坂ちゃんは松原正樹のギターとどうセッションしたか

『聴けば一発でわかる』と評されるセッションギタリストでスタジオミュージシャン松原正樹のギタープレイ。寺尾聡の「ルビーの指輪」、松山千春の「長い夜」、松任谷由美の「恋人がサンタクロース」、ほかには松田聖子の「渚のバルコニー」など、弾いてる人の名前は知らなくても、”このギターフレーズどこかで聴いたことある”、となる人の代表例。印象的で耳に残るギター。

 

悲しいことに、何年か前に癌でお亡くなりになり故人となられているので、今では実際の演奏を目にすることは叶わないけれど、300曲を超えた乃木坂スター誕生での演奏楽曲の中で、原曲が松原正樹によるギタープレイのものが10曲あった。この番組では、オケはアレンジャー陣がはじめから作っているので、言い換えれば、そしてひとりのギタリストに絞れば、その人の演奏をどのように再現しているのか、という観点から視聴することができる。実際にセッションしたわけではないけれど、まるでほんとにセッションをしたかのように。

 

それは、『聴けば一発でわかる』ギターにもういちど新しい命を吹き込む作業ではなかったか、と自分は思う。今回着目するのはたまたまギターではあるけれど、ギターに限った話しではなくて、この乃木坂スター誕生における音源作りの作業というのは、過去の音楽遺産を現代の技術を駆使しながら、これからも継続が可能なかたちで置き換え、保存する。そういう側面もあったのではないかと思う。そのわかりやすい例として、誰もが耳にしたことのある松原正樹のギターを取り上げてみようと思った。

 

続きを読む

乃木坂スター誕生備忘録①書きかけ


先日のカンケさんの配信で乃木坂スター誕生に関する箇所だけを備忘録的に箇条書きでメモ。

 

 

・はじめは昭和の色をだしたかった。

シャボン玉ホリデーのような総合音楽バラエティーをやってみたかった。

・アレンジの方向性は、音像を含めて完コピ手前ぐらいまでやろうと決めていた。

・ただ、2年もやってるうちに最近ではアソビもでてくるようにはなったが。

 

著作権は誰でも申請すれば(定めに則って)自由に使える(演奏ができる)。

・原盤権(著作隣接権)は人/団体によって金額が異なる。特に洋楽は無理と

 思った方がいい。

・乃木坂スター誕生は放送後にパッケージ化するので、ソフト化へのハードルを

 クリアするためにもオリジナル音源を自分たちで持っておいたほうがよい、

 ということになった。

・ちなみに、番組には夜もヒッパレのスタッフだった人間もいる。

 夜もヒッパレは既存のカラオケ音源だった。

・(吉田談)カラオケの音はぺらぺらで薄っぺらくてがっかりする。

・そう、だからアレンジャーのキャスティングはめちゃくちゃ考えた。

・アレンジの方向性を当時の音像を含めてそのまま再現することに決めていた

 から、最初は(打ち込みも上手い)若手で行こうかと思っていた。

・でも、だんだんやっぱり当時の実機(ハード)を触っていた人のほうが強い

 ということがわかってきた。ツマミを回してシンセで音作りをしてきたような

 人たち。

・毎回、ゲストの人が「この音源はどこからとってきたものなんですか?」と

 たずねてくる。オリジナルでないことはもちろんすぐにわかるし、けど

 カラオケでもない。「もしかして作ったんですか?」と反応してくれる

 ことがとても嬉しい。

・そういう流れでこちらもどんどん熱くなっていってどんどん凝ったものに

 なっていった。

・MIXも自分たちでやっている。

・普通はテレビ局の専門の人がやるんだけどテレビの人に任せると声だけに

 なる。声が中心になる。テレビとしてはそれが正解かもしれないけど、

 オケのリズムだとか和音が一緒になって伝わることで音楽が成り立っている。

・そこはSONYだから。音楽番組だから。

彼女たちのためにも、乃木坂46のためにも、いい音で発信したいし

 パッケージとして残った時のためにもいい音で残ってほしいと思っている。